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  • 2020.05.15
NO.287
東京都渋谷区「代官山」の特徴

閑静な住宅街、洒落た商店、多彩な飲食店、オフィスビルが並ぶお洒落な街

東京都渋谷区「代官山」の特徴とマンション

 渋谷区代官山町は、渋谷区に比較的多く存在する、●丁目の設定が無い単独町名だ。代官山と呼ぶとき、そのエリアは「代官山町」の町域を含めて、おおむねファッションの街として買い物客や行楽・観光客が行き交う、東急東横線・代官山駅周辺から八幡通り、旧山手通りから坂を下って目黒川に向かう辺りにかけての地域全体だろう。

 エリアとしての代官山は、渋谷区域で代官山町はもちろんだが、猿楽町、恵比寿西1・2丁目や恵比寿南3丁目、南平台町や鉢山町、桜ヶ丘町あたりまで、そして目黒区の一部、大橋や青葉台なども含んで、商店などが自称「代官山◎◎◎◎」「▲▲代官山店」という表記が多い。代官山の基本は、閑静な住宅街であり、幹線道路沿いに洒落たブティックや雑貨店、和洋中の多彩な飲食店、オフィスビルが建ち並んでいる。いずれにしても、このあたり全般が「住みたい街ランキング」などのアンケートで上位にくるエリアだろう。

 地名としての代官山はすでに江戸時代に登場する。代官屋敷があったからだという説など諸説あるようだが、由来を裏付ける歴史資料は残っていない。

関東大震災後に建った同潤会代官山アパートメント

 関東大震災の後、1927年(昭和2年)に雑木林だった代官山に近代的な鉄筋コンクリートのアパートが建設される。同潤会代官山アパートメントだ。財団法人の同潤会は震災被害の救済機関として設立され、東京・横浜の16ヵ所に災害復興住宅を建設する。そのひとつ代官山アパートは青山女学院跡に1925年(大正14年)着工、1928年(昭和3年)に竣工した集合住宅である。全36棟337室、2Kを中心に近代的集合住宅として先駆的な仕様のアパートだった。震災の教訓から「壊れにくい・燃えにくい住宅」として鉄筋コンクリート造が採用され、娯楽室、食堂、水洗トイレ、自家水道、公衆浴場などが完備された。

 1996年に老朽化をうけて同潤会アパートは解体され、2000年に再開発され代官山アドレスとして開業。同時にこのエリアで唯一の高層36階建て・501戸のタワーマンションを中心に、商業施設や公共施設などを備えた都市型居住空間として再生した。基本計画はニューヨーク近代美術館を手掛けた世界的に有名なロバート・ザイオン氏。周辺地域との調和に配慮した開放的な空間計画となった。もとの樹木も再び移植され、低層部の外壁デザインに旧同潤会アパートのイメージをとりいれて完成した。

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70年代以降の旧山の手通り沿いを造ったヒルサイドテラス

 同潤会アパートが戦前の代官山の高級アパートなら、1969年に第1期工事が竣工したヒルサイドテラスは1970年代の代官山に出現した現代建築。猿楽町・鉢山町の旧山の手通り沿線に建築された集合住宅、店舗、オフィスを内包した複合施設である。完全竣工は1998年、30年の歳月をかけて建てられた建築家・槇文彦(まきふみひこ)氏の代表作である。ヒルサイドテラスD・E棟に隣接する駐日デンマーク大使館(1979年)も氏の設計だ。

 ヒルサイドテラスのオーナーである朝倉家の祖先は甲州武田家に仕えたとされる武士だった。その朝倉氏が帰農し、渋谷に本拠を置く大地主となった。しかし第2次大戦後、朝倉家は所有していた土地の大部分を失い、本宅も相続税支払いの為に売却を余儀なくされた。残った旧山手通り沿いの土地を生かした不動産経営を検討していた時の当主の朝倉徳道氏が、慶應義塾大出身だったことから教授の紹介で、同じ慶應出身の建築家・槇氏と知り合い、1967年に「代官山集合住宅計画」を立案した。
 計画当時、ヒルサイドテラス計画地の猿楽町エリアは第1種住居専用地区であり、商業施設の開設は認められていなかった。が、槇はヒルサイドテラスA・B棟を建設する際に行政と交渉して用途規制緩和を実現し、現在のような住居と店舗が混在する建築を実現させたといわれる。

 第1期計画で竣工したA・B棟から、1973年に第2期にできたC棟、77年に第3期でD・E棟……、とヒルサイドテラスは少しずつ成長する。1992年に第6期計画であるF・G・H棟が完成、1998年にはヒルサイドウエストが完成した。
 近代建築の保存に取り組む国際組織「DOCOMOMO」にも認定されており、代官山の街並みをつくりあげてきた建築と言ってもいい存在である。空間にゆとりをもたせて建てられ、30年かけて人と地域を育ててきたヒルサイドテラスは、今の日本にあって奇跡のような建物といえそうだ。

猿楽町から南平台町にいたる高級住宅街

 そのヒルサイドテラスと旧山の手通りを挟んで向かい側に、隣町の南平台町に本部を置くカルチュア・コンビニエンス・クラブ運営の蔦屋書店を中核とした、生活提案型商業施設「T-SITE」の旗艦店が2011年12月に開業した。代官山という立地と深夜まで営業し、駐車場も広いことから、開店当初から芸能人が夜遅くに訪ねてくるスポットとして噂となっていた。TSUTAYAの本業は縮小傾向にあるが、T-SITEは全国に増殖し、本を読まない人も、行きたくなる書店として人気を集めている。

 その猿楽町に連なる南平台町は、江戸時代には武家屋敷や田畑が広がるのどかな風景の街だった。明治時代以降、南向きの高台で眺望に恵まれるなどで人気を集め、次第に多くの邸宅が建つ高級住宅街へと発展した高級住宅街だ。戦後は多くの財界人なども住まいを構え、岸信介元首相や三木武夫元首相などもこの街に居を構えた。旧三木武夫邸は、現在でも南平台町に残っている。
 同エリアには、「マレーシア大使館」「アラブ首長国連邦大使館」などの大使館のほかに「カトリック渋谷教会」「日本キリスト教団聖ヶ丘教会」「東京渋谷福音教会」など多くの教会が点在している。このように、広い敷地を持つ邸宅に混ざって国際的な雰囲気の施設があることが、街にエッセンスを与え格式高い街並みを形づくっている。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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