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  • 2020.05.18
NO.302
東京都新宿区「高田馬場・早稲田」の特徴

学生で賑わう街、高田馬場では駅前の大規模再開発が計画中

東京都新宿区「高田馬場・早稲田」の特徴とマンション

 本来、高田馬場と呼ばれるのは、西早稲田3丁目に存在していた馬場の名で、江戸の昔に「高田馬場の決闘」で伊予国西条藩・松平頼純の家臣・菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘が行われた、その場所である。地名としての高田は、豊島区高田や中野区上高田にいたるエリアだった。

 実際の高田馬場は高田馬場1丁目から4丁目までだが、単に「高田馬場」と呼ぶ際の地域は、高田馬場駅から早稲田大学ら学生たちで形成されている一帯の学生街、さらに史跡の高田馬場跡があることから、西早稲田1丁目から西早稲田3丁目までを包括してそう呼ぶ。また。駅周辺の下落合1丁目や新目白通り南側の豊島区高田3丁目あたりまで含めることもある。

三代将軍・家光が造営した馬術の訓練場

 地名の由来となった「高田馬場(たか「た」のばば)」は、江戸幕府が寛永通宝を鋳創した1636年(寛永13年)に、徳川三代将軍・家光によって旗本らの馬術の訓練や流鏑馬(やぶさめ)などのための馬場が造営されたことによる。
 馬場造営地が徳川家康の6男で、越後高田藩主となる松平忠輝の生母が庭園を開いた場所とされることから“高田”と冠したという。ただ、それ以前に、一帯が高台である地形から俗称として高田とも呼ばれていたため、その名を冠したとの説。また、その2つの由来が重なったためとの説もある。

 明治になって1910年(明治43年)、山手線の鉄道駅を開設するにあたって、当時の鉄道院は、所在地名を採用せず、駅から離れた史跡・高田馬場を駅名に採用して読みを「たか(だ)のばば」とし、後に開業する西武鉄道と東京メトロの鉄道2線も追随した。
 1975年(昭和50年)の住居表示実施の際、新宿区は駅周辺の町名をそれまでの諏訪町、戸塚町などから、駅名と同じ高田馬場に変更した。しかし、史跡の高田馬場跡は西早稲田3丁目となったため、町名と史跡の場所が一致しなくなったというわけ。また、史跡の高田馬場と駅名および地名の読み方はカッコ内に記載したように異なる。

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かつての牛込村字早稲田が、江戸時代になって「早稲田村」に

 早稲田と呼ぶエリアは東京都新宿区北端、神田川の南側にある地区。町名群には早稲田町、印刷・製本関係の中小工場が多い早稲田鶴巻町、早稲田南町、早稲田大学を中心とした西早稲田がある。低地は水田地域であったことが地名の由来から知れる。
 早稲田と呼ばれる地域は、古くは牛込村に属しており牛込村字早稲田であった。が、江戸時代になって「早稲田村」と呼ばれるようになった。1868年(慶応4年、明治元年)、東京府南豊島郡牛込早稲田村となった。1878年(明治11年)、郡区町村編制法により東京府早稲田村は牛込区に所属する。さらに1889年(明治22年)、市制、町村制の施行に伴い東京市牛込区は、南豊島郡牛込早稲田村を編入した。

明治の大隈重信、夏目漱石らの由来の地

 1882年(明治15年)、大隈重信によってこの地に創立された早稲田大学(当時は東京専門学校で1902年改称)の名で全国に知られる。現在、早稲田大学本部である早稲田キャンパス、文学学術院キャンパス(戸山キャンパス)、喜久井町キャンパス、明治通りを挟んで理工学術院キャンパス(西早稲田キャプション)が所在する。

 都電荒川線早稲田駅付近に甘泉園(かんせんえん)公園、水稲荷神社、堀部安兵衛仇討の碑などがある。東京メトロ東西線早稲田駅の西方台地上には、1062年(康平5年)に源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納めて八幡神を祀ったという穴八幡宮がある。ここでは江戸時代から流鏑馬が行なわれていた所だ。現在は、毎年10月10日に近くの戸山公園で行なわれている。なお、戸山公園に東京は山手線の内側で一番高い山とされる箱根山がある。その標高は44.6mだ。また南東の早稲田南町には、夏目漱石が最晩年を過ごした漱石山房跡があり、漱石山房跡に猫塚がある。

ターミナル駅「高田馬場駅」

 高田馬場・早稲田エリアは、JR山手線、西武新宿線、東京メトロ東西線が「高田馬場駅」に乗り入れ、ターミナル駅として機能する。
 また、2008年に開業した明治通り直下を走る東京メトロ副都心線の「西早稲田駅」があり、4つの出入り口のうちのひとつは、早稲田大学西早稲田(理工学術院)キャンパス内にある。

 先に開設したターミナル駅として機能する高田馬場駅のメインとなるJR東日本山手線は、前述したとおり1910年(明治43年)に開業した。2003年、JR山手線の電車発車サインメロディにアニメ「鉄腕アトム」のテーマ曲を採用。手塚治虫が社長だった手塚プロが高田馬場にあることと、ドラマの中に登場するお茶の水博士が長官を務める『科学省』が高田馬場にあったという設定から、高田馬場西商店街振興組合がJR東日本に要望した結果、実現した。当初は期間限定使用の予定だったが、その後も引き続き使用している。
 西武鉄道が乗り入れたのは1927年(昭和2年)だ。さらに、戦前から計画路線だった営団地下鉄が1964年に、中野駅~西船橋駅に乗り入れる東西線・高田馬場駅が誕生した。

 東西線の基本計画は1917年(大正6年)に当時の内務省「東京市内外交通調査委員会」の答申のうちのひとつだった。ところが、1923年(大正12年)、関東大震災の際に他の路線とともに工事未着手で特許抹消。1941年(昭和16年)に発足した特殊法人・帝都高速度交通営団に引き継ぐ。
 1946年(昭和21年)、戦災復興計画案として地下鉄建設を計画、5路線が告示された。そのなかの5号線が東西線計画だ。その後、1962年(昭和37年)の都市交通審議会答申第6号において、東京5号線は「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町及び東陽町の各方面を経て船橋方面へ向かう路線」として示された。

高田馬場駅前で進行する大規模再開発計画

 高田馬場周辺では2016年に発足した「高田馬場駅周辺地区まちづくり協議会」が、「高田馬場駅は、多くの乗降客数を誇るもの、駅舎や乗り換え動線に課題を抱えている。また、手狭な駅前広場、更新時期を迎えた建物などの課題を抱え、まち全体の更新が求められる」として、2018年に大規模再開発計画書を発表した。高田馬場1丁目エリアでは、ホテルサンルートなど1960年~70年代に建てられた建築の解体が進んでいる。

 高田馬場駅再開発協議会の対象は、東京都新宿区高田馬場1丁目26~28・34の約1.65ヘクタール。これに商業ビル「BIG BOX高田馬場」や駅前広場など周辺を加えたエリアを対象としている。再開発施設の機能として、低層部には歩行者に開かれた商業施設を配置する計画。高層部にはオフィス・交流発信拠点、ホテル・インバウンド施設、起業者向け居住・スモールオフィス・スタートアップ支援、住宅・生活支援施設など、街区の位置付けに合わせた複数案を示されている。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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