日本の自治体
  • ニッポンの自治体
  • 2020.07.30
NO.317
東京都大田区「田園調布」の特徴

日本資本主義産業の黎明期に欧米の田園都市を手本に生まれた高級住宅地

東京都大田区「田園調布」の特徴とマンション

 大田区の北西部にある田園調布は、旧大森区に属した街だ。東京というより日本を代表する高級住宅街区である。この街の生みの親は、明治・大正期の財界の重鎮で、「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一氏である。

 大正時代に導入された英国で提唱された「田園都市」運動をモデルとして、1918年(大正7年)、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一氏発案で、その四男である渋沢秀雄氏が田園都市株式会社を設立し宅地を造成。1923年(大正12年)8月から分譲を開始した住宅地だ。

日本の社会産業構造が激変する時代を読んで開発した住宅地

 開発するに当たり、渋沢秀雄氏は米国セントフランシスウッドや英国レッチウォースなどの“田園”住宅都市を視察、開発理念や街区デザインを学び、田園調布の街づくりの参考としたとされる。その際、調布村の一部であったこの地に「田園」の2文字を冠して「田園調布」としたのである。

 現在の東急東横線・目蒲線田園調布駅西口の駅前広場を中心に放射路、環状路を設置して、ひと区画100~500坪(330~1650平方メートル)で電気・ガス・電話・上下水道などの生活インフラが完全に揃った高級住宅地として分譲を開始した。

「田園調布駅」は、1923年(大正12年)に「調布」駅として開業し、1926年(大正15年)に現在の駅名に改称された。1994年(平成6年)から翌年にかけて、東急東横線と旧目蒲線(目黒線)の複々線化に伴いホームを地下化し、上部に商業ビル「東急スクエアガーデンサイト」が建設された。また、これにあわせてヨーロッパ民家を模した旧駅舎が復元され、田園調布の街のシンボル的存在となった。

 渋沢氏が田園調布を開発した背景には、当時の日本における大きな社会産業構造の変化があった。その変化とは、新しい中流階層「ホワイトカラー」を生み出したことだ。その新しい中間層は、九段や番町などの従来型の都心高級住宅地ではなく、交通インフラの整った通勤に便利な、緑豊かで環境の良い郊外に家を求めた。田園調布の開発および分譲は、ちょうど彼ら新世代の出現時期とそのライフスタイルに合致したのだった。

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街の運営は自治会を超えた機能の社団法人が担う

 分譲された田園調布には、時代が生んだ新しい上級層や官僚、軍人、大学教授、医師といった人々や渋沢氏らの開発者が住み、志の高いコミュニティーが形成された。街の運営は自治会である「社団法人田園調布会」によって自らが運営し、開発当初の理念を受け継いだ紳士協定である『田園調布憲章』のもとに街が守られてきたのである。
 開発当初の「土地譲渡契約書」には、分割条件など土地分割条件や建物は3階建てまでに規制するなど建築に対する極めて詳細な条件が付されており、建蔽率やセットバックの概念などが記されていた。その紳士協定によって街の環境が守られてきた。同法人と大田区役所の資料によれば、田園調布は、「日本で初めて庭園都市「ガーデンシティ」として計画的に開発され分譲された住宅街」であるとされている。

 現在、田園調布は1丁目~5丁目からなり、広さは約63万坪(約205万平方メートル)である。高級住宅街のイメージで語られる際の広義の「田園調布」とは、東急田園調布駅の西側に広がる扇状の街路付近の大田区田園調布3丁目・4丁目、および世田谷区玉川田園調布の一部を指す。

 冒頭で触れたように基本的な開発理念は渋沢栄一氏らが中心となって英国で提唱されていた田園都市構想をモデルとしたこと。その理念が活かされた田園調布駅前から放射状に延びる道は、当時の欧州都市に倣って、その都市に見られた構造・特徴をそのまま取り入れた結果である。

英国の職住隣接型の住宅地開発とは異なる手法

 渋沢栄一氏の4男である秀雄氏は欧米の田園都市視察のため1919年(大正8年)8月から11カ国を訪問・視察した。氏が残したその際の回想記によると英国の近代都市計画の祖とされるエベネーザー・ハワード(Ebenezer Howard)氏がロンドンの郊外で設計したレッチワースよりも、米サンフランシスコ郊外の高級住宅地であるセントフランシス・ウッドの街を田園調布設計の参考にしたと記されている。

 つまり、レッチワースは職住近接がコンセプトで、住宅街に隣接して工業地域を置いた住宅街とし、住宅街の周囲を緑地帯としての農業地域が取り囲む構造だ。これに対し、日本の田園調布は工業地や農場を配置せず、「街全体を庭園都市とすることを目指して建設した」のである。実際、田園調布駅西側に半円のパリの凱旋門から放射状に伸びた道路、エトワール型の道路を取り入れ、広場と公園を整備し、良好な住環境を提供している。

 ちなみに、東急東横線の多摩川駅の東エリアの田園調布1丁目には、敷地面積3万平方メートルにおよぶ旧くは多摩川園遊園地だった跡地に田園調布せせらぎ公園が造成され、田園調布1丁目と4丁目に約6万6000平方メートルの広大な多摩川台公園がある。また、同3丁目には田園調布会が設置した大正時代から残る宝来公園があり、第2種風致地区指定による建築制限によって緑豊かで良好な住環境が整う。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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