神奈川県横浜市戸塚区の特徴を知る
神奈川県「横浜市戸塚区」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
東海道の宿場町は昭和初期に工業都市、1960代以降ベッドタウンに発展
横浜市戸塚区はJR横浜駅と大船駅の中間に位置する。区域は北東から南西にかけて延びており、中央部を柏尾川、東海道線、国道1号が縦断している。柏尾川流域は工場地帯で、丘陵地のほとんどが住宅地として開発されている。ちなみにJR戸塚駅は、1887年(明治20年)の東海道線開通に併せて開業した。
神奈川県・横浜市戸塚区のマンション
2018年、神奈川県・横浜市戸塚区で販売された新築マンションは191戸、相場価格は4665万円~5937万円だった。同区内の中古マンション相場価格は1820万円~6230万円だ。
2019年1月現在、戸塚区の人口は、28万439人。総世帯数は12万4863世帯だ。同区の人口は、横浜18区のなかで4番目である。
軍需産業の拡大に伴い工業地域として急成長
1939年(昭和14年)、鎌倉郡内の1町7カ村が横浜市に編入され、戸塚区が誕生した。その頃から同区内では、軍需工業の拡大とともに、京浜地区の工場は、拡張する余地がなくなり、横浜市周辺に広い敷地を求めるようになった。戦時下に横浜市周辺では、金沢、港北、追浜などの工業地域がいくつかできたが、戸塚がもっとも急激・急速に工場進出が進んだとされている。
終戦後、区内の各工場は、さいわいにも空襲の被害がほとんどなかった。しかしながら、敗戦後の原材料不足や占領政策によって、復興が順調に進んだとはいえない。皮肉にも数年後、米ソの冷戦が表面化すると同時に、朝鮮戦争特需が始まり、重化学工業を中心に工業生産は急ピッチで回復。大規模工場が集中している戸塚区は、市内で3位の工業生産高を誇ることとなった。
1960年代にベッドタウンとして人口急増、分区が相次ぐ
首都圏のベッドタウンとして区の人口は、1960年代に道路網の整備や鉄道の延伸、工場の進出や宅地開発などで人口が急増した。こうしたなかで、さまざまな文化施設がオープンし、東戸塚駅や市営地下鉄戸塚駅が開業するなど、交通網の整備が進み、ますます商業が発展した。
1969年(昭和44年)に人口急増により区の北側が瀬谷区として分区。1986年(昭和61年)、行政区再編成により戸塚区から栄区、泉区が分区している。
戸塚区の総面積は、35.70平方キロメートルと、横浜市の自治区のなかでもっとも広く、市域面積に8.2%を占めている。
戸塚区は、東海道戸塚宿などの旧跡が残る街でもあり、2004年(平成16年)に戸塚宿400周年を迎え、2019年(平成31年)には、戸塚区・区制80年を迎える。
戸塚駅周辺の都市基盤整理も進み、戸塚駅西口第1地区第二種市街地開発事業が2013年(平成25年)3月に完了。加えて、戸塚駅の東西をつなぐ都市計画道路「柏尾戸塚線」のトンネルや、土地区画整備事業も2016年(平成28年)3月にすべて完了した。
名産「鎌倉ハム」は戸塚区(鎌倉郡)生まれ
1874年(明治7年)、英国船のコック長だったウィリアム・カーチスは、茶屋「錦屋」の看板娘・加藤かねと結婚し「ハムの製造」をはじめ、上柏尾村の戸塚街道に面するロードサイドに観光ホテル「白馬亭」を開業。同時に製造したハムを横浜の外国人向けのホテルに供給し、残りを外国人居留地で販売していた。それを見た下柏尾村(現在の戸塚区)の斎藤萬平は、ハムの製造で村を豊かにできると確信し、ハム製造の研究を始めようと考えた。紆余曲折あったもののカーチスに教えを請うた斎藤萬平はハムの製造に漕ぎつける。
こうして、 日本人初のハムづくりが始まり、鎌倉郡(戸塚区)でつくるハムなので「鎌倉ハム」と命名された。ゆえに、「鎌倉ハム」を鎌倉市の観光土産とするのは誤りである。
戸塚区柏尾町184に、明治20年ごろに建てられた、壁の厚さが1mもあるレンガづくりの冷蔵貯蔵庫「鎌倉ハム倉庫」が残っている。現在、ここでハム製造は行なわれていないが、斎藤家の自家用貯蔵庫として、今でも現役だとか。戸塚区の「近代化遺産」のひとつといえる。
公開日:2019.12.26著:吉田 恒道