東京都江東区の特徴
― ニッポンの自治体 ―
埋め立てで発展した江戸情緒溢れるエリアと再開発で生まれた近代都市
東京都江東区は隅田川と荒川に挟まれたデルタ地帯で東京湾に面する。「江東区」との名称は、隅田川の東に位置するという地理的な意味から、辰巳区、東区、永代区などの候補のなかから選んだ名称だ。江東区の「江」は深川、「東」は城東の意味も含む。江東の地名は、古くは江戸時代から使用されており、当時「江東」と呼んだ地域は、本所地区または深川地区を指す場合と、広く隅田川の東部を指す意味があったという。
東京都・江東区のマンション
2018年、東京都・江東区で販売された新築マンションは4577戸。江東区の供給戸数は東京23区でトップ。急速に開発が進められる豊洲エリアにおけるマンション建設が牽引しているようだ。同区で販売した新築マンション相場価格は5996万円~9284万円だった。同区内の中古マンション相場価格は2730万円~7700万円だ。
江東区の人口は、2008年8月の調査では45万6876人だったが、2019年1月現在、同区住民基本台帳によると51万8479人で、26万7262世帯。そのうち外国人は2万9472人だ。この10年間で1割以上急増した。
同区域は門前仲町界隈や深川などの富岡地区、白川地区、マンション建設ラッシュが進む豊洲地区、小松橋地区、木場などの東陽地区、同区内でもっとも古くから市街地化が進んだ亀戸地区、大島地区、砂町地区、南砂地区に分けられるが、人口がもっとも多いのは、高層マンションが立ち並び、人口11万8621人を擁する豊洲地区である。
江戸時代から始まった埋め立てで生まれたエリア
江東区は、江戸時代初期まで海に点在する小さな島だけしかなかった。まさに江戸初期から始まった埋め立てによって発展する。1596~1615年の慶長期に深川八郎右衛門が森下周辺の新田開発を行い、深川村を創立。また、1659年(万治2年)に、砂村新左衛門一族が、宝六島周辺の新田開発を行ない、砂村新田と名づけられた。
区内を縦横に走る河川を利用しての木材・倉庫業、米・油問屋の町として栄え、社寺の祭礼、開帳などの年中行事を中心に、亀戸など江戸市民の遊興地としても賑わう江戸文化が華を咲いたエリアである。
区西部の中心地である門前仲町(通称もんなか)は、古くから栄える街で富岡八幡宮、深川不動など神社仏閣が多い。ちなみに町名は富岡八幡宮の門前町として17世紀ごろから町屋がつくられたことに由来する。現在でも「深川」というと門前仲町界隈を連想しやすい。古くからの商店街は江戸情緒たっぷりの街並みといえる。
その富岡八幡宮は横浜市金沢区にある「富岡八幡宮」を本社とする八幡神社。江戸時代初期、1624年(寛永4年)、砂州であった地域を干拓した。その際工事が難航したため、「波除八幡」の別名を持つ「富岡八幡宮」(横浜市金沢区)から分社して同じ社名を許され、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされる。創建当時は「永代嶋八幡宮」と呼ばれ、徳川将軍家の保護を受け、当時から庶民にも「深川の八幡さま」として親しまる。
明治時代になると、江東区は広い土地と水運を利用した、東京の工業地帯となる。1878年(明治11年)に深川区が発足、1932年(昭和7年)には南葛飾郡に属していた城東地区が城東区となり、東京市は深川区・城東区を含む35区制を敷く。 1943年(昭和18年)に都制が導入され、1947年(昭和22年)には35区から22区制への区整理施行が行なわれて、深川・城東の2区が合併し現在の江東区が生まれた。
臨海副都心と豊洲再開発が牽引する江東
一方、1990年代から臨海副都心開発によって生まれた有明や青海などの通称「お台場」と呼ばれるエリアは、ほとんどが江東区で、観光地、ビジネス街として栄える。有明には年間、約1500万人が訪れる日本を代表する大規模イベント&コンベンション施設である国際展示場・東京ビッグサイト、東京ファッションタウン(TFT)などのほか、ホテル、オフィスビルなどが林立する。2020年に開催する東京オリンピックの競技会場やメディアセンターの予定地になっている。
区南部の中心地である豊洲地区は以前、造船場などの工業地帯として発展したエリアだ。しかし、現在は再開発が進み、人口が爆発的に増加。高層マンション・高層ビルなどが多い。複合商業施設「ららぽーと」や大企業の本社も複数ある2016年9月、大きな問題となった築地「東京中央卸売市場」の移転先「豊洲市場」も同エリアにある。
区内の鉄道網も多彩だ。JR総武線「亀戸駅」をはじめJR京葉線。都営地下鉄新宿線・大江戸線。東京メトロ東西線・有楽町線・半蔵門線、東武鉄道亀戸線、新交通ゆりかもめ、東京臨海高速鉄道りんかい線などが縦横に走る。
著:吉田 恒道(公開日:2019.12.25)