日本の自治体
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  • ニッポンの自治体
  • 2020.01.06
NO.247
京都府「長岡京市」の特徴

かつての「弟国宮」「長岡京」の商業地で、歴史的景観とみどりの街

京都府「長岡京市」の特徴とマンション

 京都府長岡京市は、京都盆地の西南部に位置し、北は向日市・京都市、東は京都市、南は大山崎町、西は西山連峰を境に大阪府と接する。東西約6.5km、南北約4.3km、総面積は19.17平方キロメートルで東西に長い地形となっている。
 総面積の約65%が住宅地に適した平坦部であり、残りの西山山地が、同市市街地の背景となり、自然豊かな景観をつくっている。その西山山地は、近畿圏近郊緑地保全区域に指定され、景観の保全が図られている。
 中央部はアゼリア通りを中心とする中心街で、住宅・商業・工業・農業に広く利用され、東部は工場適地に指定されており、工場の進出が盛んだ。小畑川が東部を南北に、小泉川が西南部をほぼ東西に貫流して桂川に注いでいる。

京都府・長岡京市のマンション

 2018年、京都府・長岡京市で販売された新築マンションは5017万円。同年、同市内の中古マンション相場価格は2520万円~4480万円だった。

 2019年1月現在、京都府長岡京市の人口は、同市の発表によると8万1262人。総世帯数は3万6150世帯である。

 長岡京市の歴史は古く、約2万~3万年前の後期旧石器時代から人々の集落が確認されている。その後、豊かな水と緑に恵まれ、現在に至るまで連綿と人々の生活の場となってきた。
 古墳時代には幾代もの首長墓が築かれ、中央王権とつながっていたことがわかっている。また6世紀初めには継体天皇による「弟国宮」が、8世紀末には桓武天皇による「長岡京」と2度にわたって宮都が置かれた。

「弟国宮」「長岡京」と2度にわたって宮都が置かれた街

 なかでも、平城京から遷都された784年(延暦3年)から794年(延暦13年)に平安京に遷るまで都が置かれた「長岡京」は、王城の地として栄える。京域は、現在の長岡京市・向日市・大山崎町・京都市の一部にまたがる広大なエリアだった。政治の中心は、大極殿のあった向日市のあたりだが、長岡京市は、京域の南西部に位置し“市”が置かれるなど経済の中心であったとされている。

 江戸時代には、村々は皇室・公家・寺社等に細分して領有されるも、平和な農村として京都の生活を支え、明治に至る。

 1889年(明治22年)、全国的な町村制の実施によって江戸時代の村15カ村が合併して新神足村、海印寺村、乙訓村の3カ村となる。平坦部では米・麦・茶などの農産物を、西部丘陵地では特産物「筍」を産出する農村として、豊かな土地、大都市の近郊、至便な交通などに恵まれて発展を続けた。

 1949年(昭和24年)に、前述の3カ村が合併し、長岡町が誕生する。1960年代、日本経済のめざましい経済成長にともない、京都・大阪の衛星都市という立地条件の良さから人々が流入し、また工場の進出によって急速に都市化が進行した。
 1970年(昭和45年)に人口が5万人を突破し、1972年(昭和47年)10月、市制を施行し「長岡京市」となった。市名は古代の都「長岡京」から命名したもので、都の名前を市名としているのは全国でも同市だけ。その後も人口は増加し続け、2011年(平成23年)5月に8万人を超えた。

至便な交通網と西山が代表する豊かな自然が調和する長岡京

 長岡京市の大きな特徴のひとつが交通利便性の高さだ。同市の東部をJR東海道本線、中央部を阪急京都線がそれぞれ並行して通過し、京都へJR長岡京駅・阪急長岡天神駅から10~15分、大阪へ26~40分でアクセスできる。また、阪急バスが両駅から大山崎町・向日市へと連絡。さらに、道路交通においても東海道本線の東側には東海道新幹線・名神高速道路・国道171号線が縦走しており、交通の便に恵まれている。

 「交通の利便性」に次いで市民が挙げる市の特質が、「歴史的景観」と「みどりの景観」だ。市民憲章にも「長岡京市の古い歴史と伝統は心にうるおいを
与え、西山の豊かな緑は明日への英気を養ってくれる」と記載されているように、市の総面積の約40%を占める西山には、多くの木々や動植物が生育し、貴重な緑の資源、同市を代表する景観となっている。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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