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  • 2020.04.23
NO.272
東京都中央区「日本橋」の特徴

江戸五街道の起点で日本国道路元標のある「日本橋」

東京都中央区「日本橋」の特徴とマンション

 日本橋は中央区の日本橋川に架かる橋で、日本の道路元標があり、国道の始点となっている。日本橋が誕生したのは、征夷大将軍となった徳川家康が江戸幕府を開いた1603年(慶長8年)だ。当時は木造の太鼓橋で、現在の石造りの二重アーチ橋は、1911年(明治44年)に架けられた。

江戸の金座を拠点に日本金融の中心地、日本のウォール街「日本橋兜町」

 旧日本橋区は、1873年(明治6年)に兜町に第一国立銀行が誕生したのを皮切りに1878年(明治11年)、現在の東京証券取引所「東証Arrows」である東京株式取引所が開設。1882年(明治15年)に日本銀行本店が開業するなど日本金融の中心地となった。
 日本銀行は家康が江戸幕府を開き、商人の街として開発し、小判などの金貨を造幣した「金座」の跡地に出来た中央銀行だ。現在の建物は1896年(明治29年)に建設された石造りのビルだ。

 日本銀行の正式資料によると、「現在の日本銀行本店の敷地は、歴史上貨幣に縁の深い土地で、江戸時代に金吹所(きんふきしょ、製造工場)、金局(きんきょく、事務所)、世襲の御金改役(ごきんあらためやく)である後藤庄三郎光次(ごとうしょうざぶろうみつつぐ)の役宅で、これらを総称して「金座」と呼んだ場所だ」としている。
 日本銀行本店では、平日に4回(所要時間1時間)/1日の一般予約見学を実施している。

 「金座」とは当時、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨製造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体だった。「金座」以外の貨幣鋳造機関としては、「銀座」、「銭座(ぜにざ)」、大判の金貨製造「大判座」があったという。「金座」は1869年(明治2年)、明治政府の造幣局に吸収され廃止となる。

 この日本銀行ビルの設計は東京駅をはじめ日本橋エリアで当時多くの建築を手がけた辰野金吾とされる。日本橋エリアには、現在の三越の前身である越後屋、現在のコレド(旧:東急百貨店)の白木屋などの大店が集まった商業の中心地ともなる。

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大震災、先の戦争被害で変貌する街

 関東大震災で甚大な被害を受けた日本橋界隈は、土地区画整理事業によって河川や道路拡幅などの改修がなされ、昭和通りや浜町公園などができた。先の第二次世界大戦でも同エリアの大半を消失するも、東京都の主導により日本橋区と京橋区が合併する。しかし、日本橋区は他区との合併に難色を示し、統合後も日本橋の名前を残すとの意向から、町名に日本橋を冠することとする項目が盛り込まれ、日本橋エリアのすべての町名に日本橋が冠称された。現在中央区のおよそ北半分の地区に見られる数多くの「日本橋◎◎町」という町名は、「中央区日本橋」以外に「中央区日本橋室町」など20の町がある。中央区発足時の町名変更の名残だ。このエリアで日本橋を冠さない街は「八重洲1丁目」だけだ。

日本橋の上空を走る首都高都心環状線の地下化計画と将来の街づくり

 なお、冒頭で触れたように日本橋は、日本橋川にかかる橋で、日本の道路元標があり、国道の始点となっている。現在、その上空には1964年の東京オリンピック開催に向けて、急ピッチで整備された首都高速道路が走っている。
 1963年に開通した、その首都高だが、すでに50年以上の歴史を刻み、過酷な使用のため、橋脚の亀裂など多数の損傷が発生している。長期的な安全性を確保するため、構造物の更新が必要となっていると指摘される。

 また、日本橋周辺において都市再生プロジェクトが立ち上がり、新たな街づくりの機運が高まってきた。そこで首都高構造物の長期的な安全性の確保と国際金融拠点にふさわしい品格のある都市景観、そして歴史や文化を裏打ちされた日本橋の再生に向け、現在の都心環状線の機能を維持・確保しつつ、街づくりと連携する、首都高の地下化に向けた取り組みが動き出している。地下化するのは江戸橋JCTから神田橋JCTの首都高1.2km区間だ。

 ただ、この地下化計画、道路更新と都市景観改善を目的とした事業だが、想定工期は約20年と長い。さらに、国土交通省や首都高会社などで組織する検討会の2018年の試算で総工費3200億円も要するとされ、東京オリンピック・パラリンピックの終了後に着工するという。
 また、営業中の地下鉄などさまざまな既設地下構造物に近接する施工が強いられ、周辺の再開発事業との調整も必要など施工の難易度は相当に高いとされている。
 いっぽう、首都高地下化に伴い、日本橋川沿いに飲食店やイベント広場などを整備し、水辺をいかした「親水公園」などの街づくりを目指す計画もある。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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