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  • 2020.05.19
NO.307
東京都千代田区「番町・麹町」の特徴

徳川家・千代田城(江戸城)を護衛する旗本大番組が住んだ、明治以降の高級住宅地

東京都千代田区「番町・麹町」の特徴とマンション

 内堀通りを挟んで皇居と隣りあう麹町、番町界隈。徳川家康が江戸入府の際、江戸城入場に使ったのが麹町大通り(現在の新宿通り)だ。江戸初期から開発され、大名の中屋敷や旗本屋敷、そしてそれら屋敷住人を顧客とする商人たちで賑わったとされる。現在でも静かな住宅街であり、東京でもっとも古い屋敷街のひとつだ。

江戸城西の守りを固めた大番組の屋敷町

 番町は現在一番町から六番町まで。徳川家康が江戸城の西の守りを固めるため、番町一帯に大番組(将軍を直接警護する旗本)を住まわせた。それが地名の起こり。大番組が一番組から六番組まであったことから、町名も一番町から六番町までだった。ただし、江戸時代の大番組の組番号と、現在の町名は一致していない。
 鬱蒼とした樹木が植わる庭の旗本屋敷の多くは高い塀をめぐらし、人気のない古い旗本屋敷が連なる地域で、「番町皿屋敷」などの怪談がうまれた。同じようなつくりの旗本屋敷が密集しており、住民でさえ地理を認識することが困難であったため「番町の番町知らず」という諺ができた街並みだったという。

 千代田区六番町にある番町小学校は1871年(明治4年)設立の区立小学校だ。団塊の世代が小学生のころから、番町小学校⇒麹町中学校⇒日比谷高校⇒東京大学とすべて有名公立校を進むのがエリートと言われた。現在でも区内随一の人気校で、中高一貫の難関中学への進学率が高く越境入学者も少なくない。同校への通学区域は以下のとおり。麹町五丁目・六丁目、紀尾井町、二番町(2・4・6・7・8・10・12・14)、四番町(4・5・6・7・9)、五番町、六番町で、同エリアのファミリー向けマンション価格は高値安定傾向にある。

 明治初期に四番町の大半が富士見として独立し、昭和初期の街区改正によって九段の南北3・4丁目となった。明治維新後、旗本屋敷跡に明治政府の高級官僚などが移り住んだことから高級住宅街となっていった街だ。

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武蔵国府に向かう「国府路」がとおる街

 麹町の名、その由来はいくつかある。市街地を開発した際、高台で麹づくりの蔵が掘りやすく、麹作りを生業とするものが多く住んだから、あるいは「小路」が多くあったからとも伝わる。また、武蔵国府(現在の府中市)に向かう「国府路」(こうじ)があったからという説が有力である。
 江戸時代、麹町は1丁目から13丁目まであり、そのうち、10丁目までが江戸時代の都心である四谷御門の内側だった。近江彦根藩・井伊家、尾張・徳川家、播磨明石藩・松平家などの大名屋敷のほか、大型高級呉服店などの高級店が軒を連ねる地域だった。1934年(昭和9年)に6つの町に再編され、現在に至る。

江戸の名残の名が付く坂の多い街には文化人が好んで住んだ

 その番町・麹町には明治以降、著名な文化人が多く住んだ。武者小路実篤、泉鏡花、島崎藤村、永井荷風、国木田独歩、菊池寛、与謝野鉄幹・晶子夫妻らで、作曲家の山田耕筰、滝廉太郎などのほか、高級官僚や財閥系企業の役職者らが好んで住んだ。

 番町・麹町には名の付いた坂が多い。例をあげると、一番町交差点から一番町4番地と6番地の間を南へ上る「袖摺坂」(そですりざか)で、昔この道は幅が狭く、行き交う人々の袖が触れ合ったことから名付けられたといわれる。袖摺坂の西側の一番町6番地と8番地の間を北に上る坂「南法眼坂」は、江戸前期の仮名草子『紫の一本』(むらさきのひともと)に「斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり」との記述があり、これが坂の名の起こりとされる。ほかにも「五味坂」「永坂坂」など、いずれも旧く伝統のある街らしい名称が多い。

 このエリアは鉄道交通網が充実しており、JR市ヶ谷駅に連絡する都営地下鉄新宿線、東京メトロ有楽町線、同南北線でターミナルを形成。富士見町付近でもJR飯田橋駅と東京メトロ東西線などが、麹町エリアにはJR四谷駅で東京メトロ丸ノ内線、南北線が連絡。加えて有楽町線麹町駅、半蔵門線の半蔵門駅がエリア内にある。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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