東京都千代田区の特徴を知る
東京都「千代田区」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
千代田城下は、江戸随一の高級住宅地、日本屈指のビジネス街、高度文教地区
千代田区の名称は、江戸城の別名「千代田城」に由来する。同区の中央に位置する旧江戸城・現在の皇居は、同区面積の15%を占める貴重な緑地となっている。現在、同区の面積は11.66平方キロメートルである。区域は、ほぼ「江戸城」の外濠の内側部分と一致する。つまり江戸城外郭を含めた城址に当たる場所だ。現在も東御苑には大奥跡や忠臣蔵で有名な松の廊下あとなどが現存する。江戸城天守閣は消失したが、天守台は残っていて、観光名所になっている。
千代田区は江戸幕府の政治的な中心地であり、明治維新後も新政府は霞ヶ関や永田町などの大名屋敷跡に官庁街を築き、日本の政治・行政機能の中心が置かれた。千代田区そのものは、東京22区制移行に伴い、1947年(昭和22年)3月15日に、それまで70年の歴史があった麹町区と神田区の統合によって生まれた。
東京・千代田区のマンション
2018年、東京・千代田区で販売された新築マンションは518戸。同区で昨年販売した新築マンション相場価格は7875万円~2億873万円だった。中古物件マンションの人気も非常に高く、番町や麹町を中心に建設された同区内の中古高級マンション相場価格は4900万円~1億8550万円と、高値で安定している。都心指向のマンション需要が根強いことの証明か。
現在の番町や九段、麹町は、江戸時代に徳川幕府の旗本御家人らの武家屋敷が建ち並んでいた街区。明治維新後、武家屋敷跡に明治政府の高級官僚などが移り住んだことから高級住宅街となっていった街だ。
大正9年、人口22万人の高級住宅街だった。が、その後急減、1995年に3万4780人で底を打つ
東京・千代田区の人口は2019年8月現在、6万5218人で、総世帯数は3万6810世帯となっている。ただし、昼間人口は85万人と極端に多く、13倍以上に膨らむ。
前述したように明治以降、同区の番町・麹町など武家屋敷跡に高級官僚や大企業の役職者などの高額所得者が新たな住民として流入、東京屈指の高級住宅街を形成する。1919年(大正9年)の第1回国勢調査では、その人口22万人となっていた。
しかし、関東大震災や先の大戦被害で、同区の人口は1995年まで減少が続き、3万4780人となり底を打つも、以後、増加傾向に転じ、現在も漸増傾向にある。ただし、千代田区の発表によると、2019年8月現在、居住する住民がゼロの街区、つまり住民がゼロの町内は丸の内3丁目や大手町2丁目、霞ヶ関1丁目・2丁目、内幸町2丁目、一ツ橋1丁目、神田相生町、神田花岡町など10街区におよぶ。ちなみに、区内でいちばん住民が多い町内は高級マンションが建ち並ぶ一番町で3737人、次いで三番町の3633人、富士見2丁目の3240人となっている。
明治以降、国会議事堂、首相官邸、中央省庁、最高裁判所などの日本の立法・行政・司法である国家三権をはじめとした日本の首都機能、主要政党の本部など国家権力中枢が集中した。
超A級ビジネス街区と高度文教地区を内包する超都心
神田地区は江戸時代から幕府御用の儒学者が集まる昌平校や学者の私塾が多数集まる学問の街となった。その影響からか、近代以降も一橋大学や明治大学、日本大学や法政大学などの大学ほか、有名私立小学校、中高一貫校などが多数立地して学問の盛んな文教地区となっている。
丸の内地区は1891年(明治23年)に三菱財閥に払い下げられ、霞ヶ関などの官庁街に隣接したA級ビジネス街として開発。当時「三菱ケ原」と呼ばれていた荒れた土地だった現在の丸の内に、1894年(明治27年)に日本で最初の近代的オフィスビル「三菱一号館」が完成した。さらに1923年(大正12年)、「丸ビル」が落成する。現在、その立地の良さから都市銀行の本店や商社など大企業本社、読売新聞社や日本経済新聞社など大手新聞社などが集積。日本経済の中心地となる。
三菱地所は昭和の高度経済成長に対応した「丸の内改造計画」や、1998年(平成10年)から進める「丸の内再構築」など継続的な開発投資を通して、先進的な街づくりに取り組んでいる。
千代田区の北部には神田があり、山手線の秋葉原と東京の間にある街で、このエリアは江戸時代の代表的な町人街でありビジネス街だ。現在でも下町の雰囲気を感じることができる。古い町名のなごりが地名に残る、区内でも独特の場所といえる。
千代田区は、2002年(平成14年)、日本初の禁煙条例を施行し、公道上での喫煙に過料を課す条例「千代田区生活環境条例」をスタートさせ、全国に拡大した禁煙条例の先駆けとなった。
公開日:2020.01.24著:吉田 恒道
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