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  • 2020.05.19
NO.310
東京都千代田区「秋葉原・末広町」の特徴

数多くの地域名が消滅した、旧神田区に属する秋葉原エリア

東京都千代田区「秋葉原・末広町」の特徴とマンション

 秋葉原と呼ばれる街の区域に明確な定義はない。が、東京都が策定した「都心等拠点地区」によると、その範囲は、東の昭和通り、西の昌平橋通り、北の蔵前橋通りと南の神田川に囲まれた、東京都千代田区外神田と神田佐久間町、そして台東区秋葉原エリアだ。

 秋葉原と云えば日本の否、世界の電気街とサブカルチャーの街として有名であるが、それらのショップは、秋葉原駅周辺から中央通り万世橋、そして東京メトロ銀座線末広町駅の外神田5丁目交差点まで拡がっている。電気街口前が外神田1丁目、その北の中央通り東側が外神田4丁目、西側が外神田3丁目だ。秋葉原電気街の外側にはオフィス街や、古くから建っている民家も相当数あるエリアだ。鉄道各線の駅が近く、千代田区の一等地として地価・家賃ともに高い。

千代田区の住所記載地に“秋葉原”の地名は無い

現在の秋葉原に当たる地域は、江戸幕府2代将軍である徳川秀忠の時代に神田川が現在の場所を流れるよう開削され、大名屋敷や旗本達が住まっていた場所だった。しかし、幾度かの大火を機に郊外へ移転。代わって川沿いに材木商が集まる神田佐久間町の前身が生まれた。大名屋敷跡地は町民に与えられ町人地が拡大していった。

 その後も大火の度に代地町が細切りに与えられ、町の付け替えも頻繁に行われ、幕末までに50近くの微細な町が複雑に入り組んだ町割となっていたが、明治になって武家地を合わせて20町近くに整理され、現在の外神田と呼ばれるエリアになった。

 1870年(明治2年)1月の大火を受けてつくられた火除地に、明治天皇による勅命により、1870年10月に皇居(宮城)内・紅葉山から鎮火三神を勧請し秋葉大権現(あきはだいごんげん)を創建した。人々は「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、秋葉原の地名が誕生した。
 当初、秋葉原と呼ぶ地域はこの空地に相当する神田花岡町域だけを指していたが、秋葉原駅が開業し、その指す範囲も拡大して現在に至る。

 このため、当エリアの呼称が「あきはばら」として定着するのは秋葉原駅の開設以降とするのが定説で、後に地名の読み自体も「あきはばら」となる。1890年(明治23年)に開業した時点の駅名は「秋葉原駅」(あきはのはらえき)で、貨物専用駅だった。駅の呼称としては「あきはのはら」から「あきははら」に変化し、1907年(明治44年)に「あきはばら」へと変更された。現在、日常的にメディアなどでも広く「あきば」という略称が使われている。

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戦後、古くから続く町名の多くが消滅し外神田が誕生

 一般的に秋葉原と呼ばれる町域の住所は、千代田区外神田で、秋葉原駅周囲の旧神田旅籠町・旧神田佐久間町などを引き継いだ1丁目から、東京メトロ銀座線・末広町付近の3~旧神田五軒町などを継ぐ6丁目までで構成される。
 その名称は江戸城から見て神田川(外堀)の外側を「外神田」、内側を「内神田」と称したことが名前の由来で、1964年の住居表示実施による町名変更の際、この名が新町名に採用された。

 この外神田区域はかつて神田区に属したが、戦後、1947年(昭和22年)3月に神田区が麹町区と合併。千代田区が誕生。以降千代田区の一部となった。1964年12月に千代田区内では最初の住居表示が行われ、これにより、古くから続く町名の多くが消滅した。
 この住居表示実施に際して、古くからの住民から町名保存を求める運動が起き、区長の辞任騒動や区議会による住居表示実施案の見直しを採択するなどの騒動が発生。この影響で、神田相生町・神田花岡町・神田練塀町・神田佐久間町1丁目の一部と神田松永町で、現在に至っても住居表示が実施されないままとなっている。

 本エリアでは、住友不動産が千代田区外神田1丁目において開発を進めていた、地上23階、地下1階、高さ125m、延べ面積26,166?のオフィスビルが、2019年12月6日に竣工した。建設地はJR御茶ノ水駅とJR秋葉原駅のほぼ中間地点である。かつてオフィス棟敷地には「ヤマギワリビナ本館」、商業棟敷地には「石丸電気本館」があった。

 江戸期にこの地は、中山道や日光御成街道の街道筋として旅籠が数多く並んだ「神田旅籠町」と呼ばれた街で、交通の要衝として栄えた後、商人の町として成長した。「外神田」という名称は前述のように、1964年から新町名として採用された。
 住友不動産が2010年に取得したオフィス棟敷地は、「伊勢丹発祥の地」としても知られている敷地だった。

幕末明治の上野戦争における市街戦を経て誕生した末広町

 一方、外神田の北端ともいえる外神田3丁目あたりの東京メトロ銀座線・末広町駅周辺は、江戸時代には武家の屋敷地と商人・職人の居住地とが隣り合っていた。古い江戸の地図を見ると、町の南側にあたる場所には、神田平永町代地や柳原岩井町代地、麹町平河町一丁目代地、神田山本町代地といった町名があったことが分かる。いずれも商人や職人が住んだ町屋街で、主に日用品を取り扱っていた商人が住んでいたと伝わる。
そして、町の北側には、越後村松藩堀家の藩主が住む上屋敷をはじめ、十数軒の武家の屋敷が集まっていた。
 末広町が誕生したのは、明治新政府群が勝利した上野戦争の翌年、1869年(明治2年)のこと。界隈では、旧幕府軍と新政府軍とが戦った上野戦争の市街戦で戦闘に巻き込まれ、家族や家屋を失った町民も多く、末広というおめでたい名前に「末広がりで平和な町として繁栄しますように」という、町民の切実な祈りが込められていたという。

 東京メトロ銀座線・末広町駅は中央通りと蔵前通りの交わる、外神田5丁目交差点直下にある駅だ。ただ、住所は外神田4丁目である。秋葉原電気街の北の端に位置し、至近にある日比谷線・秋葉原駅との連絡は出来ない。1日の乗降客数は2万5000人ほどで、東京メトロ・130駅中121位。銀座線の駅で稲荷町駅に次いで乗降人員が少ない。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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