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  • 2020.05.18
NO.296
東京都新宿区「四ツ谷」の特徴

かつては江戸城の外堀であった四ツ谷駅前、再開発が進む

東京都新宿区「四ツ谷」の特徴とマンション

 四谷は東京・新宿区の町名で、四谷1丁目から4丁目で構成される。しかし、かつての行政区である四谷区の名前でもあり、慣例として旧「四谷」を冠する町名の街、JR四ツ谷駅周辺を指す地域名称だ。

 現在、四谷と漠然と指すエリアは、ほぼ現在の四谷警察署管内を網羅する。これらは戦後の新宿区発足前の旧四谷区域に準じている。が、ほかに四谷の鎮守とされる須賀神社の氏子区域とする見方もあり、実際にはおよそ旧四谷区域のうち、新宿と明治神宮外苑付近を除いた地区となりそうだ。なお、拡大して千代田区紀尾井町のホテルニューオータニや上智大学キャンパスなども四谷という場合もある。

「四谷」という名称のはじまり「四谷大木戸」

 なお、江戸時代になって、徳川家康が甲州街道および青梅街道が付近を通行する設計とした際、その街道から江戸城内に入るために設けられたのが「四谷大木戸」(現在の四谷四丁目交差点付近)である。これが地名として初めてつけられた「四谷」である。それ以降、江戸城外濠が設けられ、それよりも外、西のエリアである内藤新宿、柏木、大久保、中野などの広大な地域を総称して四谷と呼んでいた時代もあったという。

 明治になって、現在のJR中央線の前身である甲武鉄道が新宿から延伸となり四ツ谷駅が開業。物資・商品の輸送が飛躍的に高まり、眞崎鉛筆(三菱鉛筆の前身)や岩井商会・村井商会の煙草など、四谷地区の製造業は大きく発展した。

 東京メトロ「四谷3丁目」駅から都営地下鉄「曙橋」駅に近い(四谷)荒木町は、尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに因んだ「津の守坂通り」に接する小さなエリアだ。その上屋敷には大きな池があり、徳川家康がこの池で乗馬に使う策(むち)を洗ったとされ、以来「策の池」と称される。

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関東大震災後に花街として最盛期を迎える荒木町

 明治時代になると屋敷は無くなるも、池や庭園が人々に知られるようになり、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり、料理屋が軒を連ね芸者が行き交う風情ある花街となった。荒木町が花街として最盛期を迎えたのは関東大震災後だ。日本橋や新橋などの花街が被災し客が荒木町に流れ、最盛期には料理屋13軒、待合63軒、置屋86軒、芸妓252名の規模であったとの記録も残る。だが、戦争により花街の営業が縮小され、1945年の東京大空襲で壊滅する。戦後に復興するも1960年代から70年代半ばに衰退、1980年代前半には終焉する。しかし、町域内には車力門通りや杉大門通りに沿った場所だけでなく、路地裏などに幾つもの料理屋が建ち並び、かつての花街の風情を感じさせてくれる街並みが残る。

 その荒木町の隣、曙橋は旧四谷区と牛込区の境界、靖国通りを跨ぐ外苑東通りにかかる陸橋だ。この境界部分は谷状の地形をしており、四谷と牛込とを隔てている。また付近には現在、防衛省市ヶ谷がある。
 陸橋建設が具体化したのは関東大震災後のことだ。震災からの復興事業のひとつとして、四谷・牛込間を陸橋で結ぶ道路建設が計画された。しかし、戦争による資金不足で、そのまま放置されていた。

曙橋の完成と地下鉄開通

 戦後の1954年(昭和29年)になって、新宿区任意団体の新宿区総合発展計画推進会が陸橋建設を提言し、ようやく建設着工した。1957年(昭和32年)に完成した橋の名称は一般から募り、復興と成長を願う意味を込めた「曙橋」が採用された。

 この陸橋が完成するまで、四谷・牛込間の往来は谷底まで一度降りるか、現在の防衛省の敷地を大きく迂回する必要があった。曙橋の完成により、往来は円滑となる。加えて1980年に都営地下鉄新宿線が開業、橋の直下に「曙橋駅」が建設された。かつて付近の河田町にはフジテレビの本社および局舎や、ラジオ局の文化放送局もあったエリア。フジテレビ跡地には超高層マンション街「河田町ガーデン」などになった。「曙橋」は住居表示にはない地名だが、このエリアの名称としても親しまれている。

 都営地下鉄曙橋駅を出て靖国通りを防衛省に向かって右手一帯が四谷坂町だ。この靖国通りを境に市谷本村町に接する。100年以上「坂町」を名乗ってきた新宿区の旧坂町も、2015年7月21日から「四谷坂町」に名称変更となった。
 じつは旧坂町エリアはもともと「四谷坂町」という名前だった。しかし、戦前の旧四谷区に属していたとき、「四谷区四谷坂町と重複するのは鬱陶しい」という理由から、1911年に四谷を取って「坂町」に地名が変更になっていたのだ。新宿区がこの地域の住居表示を変えるタイミングに合わせ、四谷坂町に戻されたというわけだ。
 エリア西部は荒木町のところでも触れた「津の守坂通り」が走り、これを境に荒木町に接する。南が高く北が低い周辺高低差のある地形となっているのが特徴の町だ。

四ツ谷駅前再開発「CO・MO・RE YOTSUYA」完成

 この四谷エリアで現在話題の再開発は、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)が四谷駅前の四谷1丁目50番で、2016年に着工、建設を進めてきた市街地再開発事業だ。大学も入居予定とされる高層オフィスビル「四谷タワー」を核とし、商業施設「コモレモール」および住宅棟を総称する名称は「CO・MO・RE YOTSUYA(コモレ四谷)」だ。
 住居棟は保育園が併設される「コモレ四谷ザ・レジデンス・アヴェニュー」と「コモレ四谷ザ・レジデンス・ガーデン」の2棟だ。商業施設「コモレモール」にはメガバンクの支店、郵便局、総合食品スーパー、レストラン&カフェなどのほか39店舗のテナントが入居する。棟内には内科・小児科を含む5つのクリニックも決まった。

 江戸城への入口でもあった四ツ谷エリア、新宿からやや離れた静かな住宅地という顔も大きく変化している。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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