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  • 2020.05.18
NO.300
東京都新宿区「落合」の特徴

新宿区を代表する低層住宅地、開発したのは西武グループ総帥・堤康次郎

東京都新宿区「落合」の特徴とマンション

 落合は川とみどりの街である。地名の由来は、神田川と妙正寺川が落ち合うことから落合と名付けられたという。縄文時代の「落合遺跡」、室町時代から続く歴史ある弓神事「お備謝まつり」、大正モダンの洋風建築が残る目白文化村、明治の終わりから昭和の初めにかけて、多くの芸術家や文化人が移り住んできた落合文士村など落合は自然・歴史・文化が織りなす魅力あふれる街でもある。

 落合エリアが住宅地となったのは目白文化村の誕生からだといわれる。目白文化村は、後に西武グループ総帥となる堤康次郎が、大正から昭和にかけて土地を購入・開発した郊外型住宅地だ。現在の住居表示でいうと新宿区中落合1丁目~4丁目のほぼすべて、中井2丁目と西落合1丁目の一部のエリアで、新しい郊外住宅地の名称だった。

後の国土計画、箱根土地が開発した目白文化村

 発端は1914年に堤康次郎が下落合の大地主・宇田川家から2667坪の土地を購入したことだ。以後、毎年の早稲田大学や近衛家、相馬家などが所有していた地所を購入。堤も下落合に自宅を構えると共に、経営していた箱根土地(後の国土計画、コクド、プリンスホテル)や東京護謨(現在の西武ポリマー化成)が本社あるいは拠点を置くなど、一体の開発を本格的に進めた。ちなみに西武ポリマー化成は1975年に埼玉に移転し、跡地を新宿区が買い取り「落合中央公園」となっている。

 目白文化村の住宅地としての分譲は、箱根土地が1922年6月、目白不動園として分譲を開始した「第一文化村」が始まりだ。翌年には早稲田大学(大隈家)の所有地だった一帯を「第二文化村」として分譲を開始。1923年(大正12年)に関東大震災が発生したが、被害が軽微だった一帯への転入者が増える。さらに翌1924年に「第三文化村」、つづいて1925年に「第四文化村」と旧近衛邸跡地(後の目白近衛町、現在の下落合)、1929年には、「第五文化村」を開設する。1927年に開業した西武新宿線のおかげで、交通至便な住宅地となる。
 しかし、山の手通り(首都環状6号線)の建設が1935年(昭和10年)に始まり、山手通りが文化村を縦断。先の太平洋戦争の空襲で大半の住宅が焼失、戦前の面影がなくなった。加えて戦後の1967年に開通した新目白通りによって、一帯は縦横に分断されて現在に至る。

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プロレタリア文学を生んだ落合文士村

 落合エリアの開発は、まだ地域が東京近郊の農村だった大正時代の末期に、先に記した「目白文化村」の大規模な宅地分譲計画による邸宅開発から始まった。その西側および南側で、そのころ開発の手が届かなかった地域に住んでいた文士らの住まいによって形成されたエリアが「落合文士村」だ。
 はじめは、前衛芸術家が住居を構え、それに触発された社会主義者やプロレタリア文学者の牙城になっていく。昭和初期のプロレタリア文学の隆盛で、多くの文士が落合の地を訪れ、定住する者も現れた。1924年に創刊した文芸誌「文芸戦線」などプロレタリア文学の雑誌が発行されるようになると、左翼系の作家たちの動きが盛んになる。1932年(昭和7年)の最盛期には70名程度の文士が住んでいたという。
 その後、プロレタリア文学の衰退後に、尾崎一雄など新興の芸術派と呼ばれた文筆家が居住するようになり、落合文士村は新たな顔を持つようになった。
 1933年に上落合に越してきたころの尾崎一雄は、ようやく文壇に認められ、檀一雄と同居することになったのである。彼らの住んでいた長屋は、尾崎の作品名から「なめくじ横丁」と呼ばれていた。長屋には太宰治や上野壮夫らが頻繁に訪れたという。
 1934年 (昭和9年)には檀一雄が「鷭」、尾崎一雄が「世紀」、上野壮夫が「現実」という雑誌をそれぞれ創刊した。かつて、プロリタリア文学の牙城であった落合文士村とは性質の異なる文学の拠点になっていった。

新宿区の6分の1の人口が住まう街

 現在、新宿区で「落合」の住居表示があるのは、下落合1丁目~4丁目、中落合1丁目~4丁目、上落合1丁目~3丁目、西落合1丁目~4丁目だ。2020年1月現在の居住世帯数および人口はそれぞれ、下落合が9331世帯/1万5390人、中落合が9298世帯/1万5807人、上落合が1万0197世帯/1万5293人、西落合8548世帯/1万3733人。合わせて5万1107世帯/6万0223人が暮らす街だ。これは新宿区住民34万8452人の6分の1に相当し、新宿区内の住宅地としてかなりのキャパシティがあるといえる。

 下落合に西武鉄道村山線(西武新宿線)の下落合駅が開業したのは、先に述べたように1927年(昭和2年)4月。1930年に300mほど西に移転し、現在地で改めて開業した。1932年に落合町が東京市に編入され、旧・下落合1丁目から下落合5丁目となった。
 中落合は北部で目白通りを隔てて豊島区南長崎に接し、北東部はやはり目白通りを境に豊島区目白にも接している。上落合の南部は早稲田通りで、中野区東中野に隣接し、上落合2丁目と3丁目の間を山の手通りが縦断する。

 西落合エリアは、ほぼ住宅地で、西落合2丁目の一部、2丁目の一部、3丁目の全域と4丁目の全域は第一種低層住居専用地域に指定されている。この地域の建ぺい率50%、容積率は100%で、新宿区内で最も低い割合である。整備された道路などと相まって、古い歴史と緑に囲まれた閑静な住宅地となっている。南部にある哲学堂公園の敷地の一部は西落合だ。
 西落合にはホンダの創業者である本田宗一郎氏の邸宅があった。故郷静岡の庭園に倣った広大な庭園の川と池で年に一度、交流のあるVIPを招待して鮎釣りパーティを開催していた。当日は邸宅を取り巻く道路に黒塗りの高級セダンと公安関係車両で埋まっていたものだった。

吉田 恒道

Yoshida Tsunemichi

大学卒業後、ファッション専門誌の編集者を皮切りに、音楽誌、自動車専門誌などの編集者を歴任。その後、複数のライフスタイル誌の編集長を経てフリーに。著書に「シングルモルトの愉しみ方」(学習研究社)がある。

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