千葉県四街道市の特徴を知る
千葉県「四街道市」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
1960年代半ばから旭大型団地が誕生し成長、自然と都市機能が調和した街
千葉県四街道市は、千葉県の北部に位置し、県庁所在地の千葉市へ8km、東京都心へ40kmの圏内にある。広域幹線道路の国道51号線、東関東自動車道が縦断し、千葉市、佐倉市に隣接する。市域は東西7km、南北9km、総面積は34.52平方キロメートルである。
千葉県・四街道市のマンション
2018年、千葉県・四街道市で販売された中古マンション相場価格は1680万円~2660万円だった。
2019年1月現在、千葉県四街道市の人口は、同市の発表によると9万4027人。そのうち外国人は2258人だ。総世帯数は4万830世帯である。
1955年(昭和30年)3月、千代田町と旭村が合併し四街道町が誕生。当時の人口は1万8014人(国勢調査)だった。1960年代半ばから旭ケ丘グリーンタウン、千代田団地、みそら団地などの大型団地が誕生し、首都圏のベッドタウンとして急速に人口が増加し、自然と都市機能が調和した街として成長した。1981年(昭和56年)4月、市制施行した。
JR四街道駅周辺は、住宅地が広がりマンションなどの高層住宅が建ち並ぶ。かつては四街道駅南口から228基ものガス灯が立ち並ぶ、総延長約2300mと日本一の長さを誇っていたが、現在はすべてLED化されている。
現在、四街道市では市民が共に未来を創造する「市民参加」のまちづくりを推進している。
四街道市内の遺跡総数は200カ所以上確認されており、印旛沼に注ぐ手繰川、鹿島川支流の小名木川の流域沿いに集中している。市南部は東京湾に注ぐ都川の上流域に近く、分水嶺のような状況を示す。このように市域は印旛沼と東京湾を結ぶ交通の要所に位置し、旧石器時代から人々が暮らしていた。
旧石器時代の遺跡は、関東地方を中心に全国で120カ所(102遺跡)。千葉県では36遺跡確認されており、そのうち四街道市内は物井・池花地区で4カ所と県内でも有数の遺跡数を誇る。石器を作るための石材は千葉県では限定的で、多くの石材は北関東や信州・伊豆・神津島などの遠く離れた地域から入手しており、広範囲におよぶ旧石器時代の人の移動や交流が伺える。
明治期、陸軍砲兵射的学校開設で軍都として発展
中世には下総国臼井荘へと変わり、約600年間、千葉一族の所領となった。その後、徳川幕府によって関東が平定され、江戸期には佐倉藩に属する。
明治期の1886年(明治19年)、陸軍砲兵射的学校が開設され、四街道の町は軍都として発展を遂げていく。大正時代、この学校は陸軍野戦砲兵学校に改称。
戦後、この学校の跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され現在に至っている。
1894年(明治27年)12月、総武鉄道が開通し、「四ツ街道駅」開業。陸軍野戦砲兵学校が、駅の北側に移転してくると、周辺に軍需門前町(現在の四街道地区)が形成される。
1907年(明治40年)に鉄道国有法に基づいて総武鉄道が国有化され総武本線となり、駅名は「四街道駅」に改称となった。
市名の由来はJR四街道駅から西に500mほどの場所、現在の「四街道十字路」に「北成田山道」「南千葉町道」「東東宇がね(東金)道、馬渡道」「西東京、船橋道」と掘ってある駒形方形の道標石塔が建っており、4つの街道が交わっていることから「四ツ街道」「四街道」という名が付いたとされる。
積極的な住民の意思表示を目指す“住民投票”が好結果を
2000年12月に千葉県が発表した「合併推進要綱」で、「千葉市+四街道市」が例示され、2003年、四街道市の住民の発議により、法定合併協議会が設置され、合併方式を千葉市への編入とし、行政区名を「四街道区」とする方針が決まった。が、四街道市議会内で合併への賛否が拮抗し、賛成派・反対派双方による発議により2004年5月16日に実施された、合併の是非を問う住民投票の結果、反対意見が賛成を上回ったために合併は白紙となった。
また、四街道市がJR四街道駅北口再開発の中心事業として進めていた「地域交流センター(仮称)」建設の是非を問う住民投票が、2007年12月に実施され、賛成7962票、反対2万5384票により地域交流センターの建設は白紙となった。
市民からは、建設予定地の近隣に四街道市文化センターが位置し建設費21億円を投じてまで建設する意義があるのかという疑問の声が多く挙がり、市議会が2007年10月に条例案を可決した。公共施設の建設を巡る住民投票は全国的にみても稀な事例である。
公開日:2020.01.06著:吉田 恒道