兵庫県神戸市兵庫区の特徴を知る
兵庫県「神戸市兵庫区」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
神戸市の一方のウォーターフロント、至便な交通網、そして庶民の街
兵庫県神戸市兵庫区は、神戸市湾岸中央部に位置し、北の六甲山系を背景にして、瀬戸内海へと平野部が広がり、そのエリアに都市機能が集中している。なかでもウォーターフロントの開発は活発に行なわれ、日本最長の運河や神戸の海の幸の台所と呼ばれる中央市場、2002年のワールドカップの会場となったホームズスタジアム神戸などがある。
その沿岸部には、隣の中央区と長田区を結ぶ地下鉄海岸線「夢かもめ」が走り、市営地下鉄や山陽本線と合わせて抜群のアクセス性の良さを誇る。
市街地では、東京の浅草と並び称される下町風情漂う新開地があり、活気にあふれている。北部には六甲山系が広がり、立ヶ畑ダムなど風光明媚なロケーションとなっている。
神戸市・兵庫区のマンション
2018年、兵庫県・神戸市兵庫区で販売された新築マンションは99戸で、価格相場は3525万円~3585万円。同年、区内の中古マンション相場価格は1750万円~4060万円である。
2019年1月現在、神戸市兵庫区の人口は、同市の発表によると10万9396人で、総世帯数は6万3690世帯である。総面積は14.68平方キロメートルだ。
かつて兵庫区は、現在の兵庫港のあたりまで、六甲連山によって北西の季節風が遮られ、和田岬によって西からの波浪が防ぎ、さらに水深と投錨に適した海底の砂に恵まれて天然の良港が形作られてした。奈良時代の昔より、瀬戸内海の交通の要衝として栄えてきた。
平安期より兵庫津の海運交易で発達した一大経済都市
平安末期には平清盛によって兵庫津の改修が行なわれ、日宋貿易の拠点となる。また、同区北部の福原には一時、都が置かれて政治の中心にもなった。
室町時代以降、区内南部の「兵庫津」を中心に、豪商が建ち並び海運の要所となり、一大経済都市として発展する。司馬遼太郎著「菜の花の沖」でも有名な、高田屋嘉兵衛がエトロフ航路を開き、兵庫津は北海道物産交易の基地として大いに賑わう。
その後、湊川の戦いなど南北朝動乱期には戦乱の地となるものの、海運の要地として繁栄を極める。
戦国時代には、兵庫城が建てられて池田家の所領となり、江戸時代には尼崎藩の一部となりました。当時の港は兵庫津と呼ばれる港町で、1672年、山形県から日本海を経て下関を通り、大阪から江戸に至る西回り航路が開かれると重要な拠点となり、船問屋と言われる豪商が多く輩出されて賑わった。1796年に江戸幕府の直轄地になると、さらに大きな海運業者が活躍する。
江戸末期、兵庫港の開港を諸外国より求められた幕府は、あえて人口の希薄な、東隣の一漁村神戸を開港し、現在の神戸のモダニズム発展へとつながっていく。神戸港開港で交易の拠点は神戸港に移り、兵庫津は取り残される事態に陥る。
全国一の規模を誇る運河沿いに重工業が発展した労働者の街
明治になり、1875年(明治8年)に新川運河、1900年に(明治33年)兵庫運河が完成し、両運河合わせると全国最長の全長3kmの運河が誕生した。
大正から昭和に入り、兵庫区には三菱重工業、川崎重工業などの大企業が次々と進出し、労働者の街として大いに賑わう。そして湊川の河川掛け替え工事により登場した「新開地」には、「聚楽館」をはじめ、数々の映画館、演芸場、寄席などが建ち並び、「東の浅草、西の新開地」と呼ばれるまでに発展する、戦前戦後の大衆芸能、大衆文化の発信拠点として、その中心的役割を果たした。
この後、運河沿いに製粉工場や製油工場などが建ち並び、臨海工業地帯として栄えることとなる。
公開日:2020.01.06著:吉田 恒道