埼玉県入間市の特徴を知る
埼玉県「入間市」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
県下最大の狭山茶の産地は、高度成長期を経てベッドタウンに
埼玉県入間市は、東京都心から40km圏に位置する緑に恵まれた街だ。面積は44.69平方キロメートルで、東西9.3km、南北9.8kmの菱形の地形で、周囲は、埼玉県所沢市、狭山市、飯能市及び東京都青梅市、瑞穂町にそれぞれ接している。
市域全体は、海抜60mから200mのなだらかな起伏のある台地と丘陵で構成される。市東南端と西北端には、それぞれ狭山丘陵と加治丘陵とがあり、市域の約10分の1を占める茶畑とともに緑の景観を保っている。
また、市の西北部には荒川の主支流である入間川が流れ、中央部に霞川、南部に不老川がそれぞれ東西に流れる優しい景観が特徴といえる。
地質は、地表が軽い植質壌土で、地下は関東ローム層と呼ばれる砂壌土質の洪積火山灰土でそれぞれ形成され、肥沃な土地がひろがる。
埼玉県・入間市のマンション
2018年、埼玉県・入間市で販売された中古マンション相場価格は1540万円~3010万円だった。
2019年1月現在、埼玉県入間市の人口は、同市の発表によると14万8442人。そのうち外国人は2099人だ。総世帯数は6万5314世帯だった。入間市は市域面積が44.69平方キロメートルである。
古くから人々が暮らした「入間」は、江戸期に経済成長する
入間市域の歴史は古く、すでに、縄文時代に人が住んだ集落が縄文式土器の発掘によって明らかにされている。なかでも坂東山遺跡は最大で住居跡や土器が多く発掘されている。
入間市の古代遺跡で代表的なのは東金子窯跡群、ここで主に国分寺瓦が造られたとされる。聖武天皇時代、全国に設けられた国分寺に奉献された瓦のなかには、入間の郡名が見られる。
江戸時代、天領、藩領、旗本領が混在し経済活動は活発化する。とくに江戸末期において扇町屋は、穀物市や木綿市が立ち、地域経済の拠点として栄えた。
明治期に入り、現在の入間市の原型ともいえる豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、東金子村、元加治村、元狭山村が成立する。
1938年(昭和13年)、陸軍航空士官学校(現在の航空自衛隊入間基地)が開設。戦後しばらく米軍のジョンソン基地となる。1978年、全面返還。
戦後、町村合併が促進され、1956年(昭和31年)、豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、西武町の一部(旧東金子村)が合併し武蔵町が発足。その後、1958年(昭和33年)1、元狭山村の一部を合併し、1966年(昭和41年)11月、埼玉県で25番目の市として「入間市」が誕生した。さらに、翌1967年(昭和42年)4月、西武町を編入し、現在の市域となった。
県下一の狭山茶の産地は、高度成長を経てベッドタウンに
入間市は、総体的には製造業を中心におおむね順調な伸びを示している。地場産業である製茶業、繊維工業に加え、1969年(昭和44年)に武蔵工業団地を造成、電気、機械工業などが誘致された。
なかでも製茶業に関しては、埼玉県下全般に生産される狭山茶の主産地であり、その生産量、栽培面積も県下一を誇る。
しかしながら、1960年代から70年代にかけて、ベッドタウンとして発展し人口急増による都市化が進むなかで、土地利用や市民の生活環境は大きな変化を見せることとなる。同市の産業構造も第2次産業から第3次産業へと変化した。
入間市の鉄道網は、西武池袋線とJR八高線の2路線だ。西武池袋線は都心へ直通する主要な鉄道として入間市民の通勤通学者のほとんどが集中する。入間市駅、武蔵藤沢駅の利用者が多い。JR八高線は、市の最西端を縦断する路線だ。
道路網は首都圏外周部の環状路線である一般国道16号をはじめ、299号、407号と、463号の4路線が通る。また県道として青梅入間線など8路線があり、地域交通上の基幹道路として重要な役割を担っている。
また、1996年(平成8年)に圏央道が開通し、入間インターチェンジが国道16号と接続、高い広域機能を持った道路交通網となった。
2006年を目途に同市は狭山市と合併することが、ほぼ決定していた。市名は「狭山市」を維持した対等合併構想だったが、本田技研狭山工場などからの収入が薄められるといった狭山市民の反対意見が多く、最初は合併に積極的な意見が主流であった入間市民にも反感がうまれ、2005年の住民投票で白紙撤回となった。
公開日:2020.01.06著:吉田 恒道