神奈川県横浜市保土ケ谷区の特徴を知る
神奈川県「横浜市保土ケ谷区」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
江戸の宿場、その後の工業都市は、道路交通の要衝で住宅都市へ
横浜市保土ケ谷区は、横浜市を構成する18区のひとつ。帷子川・今井川のふたつの川とそれを取り囲む起伏に富んだ丘陵部からなり横浜市のほぼ中央に位置し、東西5.8km×南北7.4km。総面積は21.81平方キロメートル。起伏に富み山坂が多く、最高地は今井町で海抜97m、最低地は天王町で海抜0.1mとなっている。
神奈川県・横浜市保土ケ谷区のマンション
2018年、神奈川県・横浜市保土ケ谷区で販売された新築マンションは332戸で、相場価格は不明。同区内の中古マンション相場価格は1750万円~5460万円だ。
横浜市保土ケ谷区の2019年1月現在の人口は、20万4715人。総世帯数は10万240世帯である。
保土ケ谷区のホームページでは、区の名称に使っているカタカナの「ケ」が、小さな「ヶ」ではなく、大きな「ケ」だと、わざわざ明記して喧伝している。これは、横浜市の「区の設置並びに区の事務所の位置、名称及び所管区域を定める条例(条例第1号、昭和34年3月14日制定)」で定めており、条例で大きな「ケ」を使用することが定められているからだとしている。
江戸東海道の宿、国鉄東海道線とともに発展した「ほどがや」
かつての武蔵国と相模国の国境(武蔵国側)のまちが現在の保土ケ谷(程ヶ宿)エリアといえる。「程ヶ宿」を過ぎると相模国となった。江戸時代、時の将軍、徳川家康が定めた東海道の駅制によって、東海道五十三次「程ヶ宿」が出来、宿場町として発展した。東海道を江戸から下る旅人にとって最初の難所と言われたのが区内の「権太坂」だ。権太坂は今でも正月の大学箱根駅伝の難所として知られる。
1889年(明治22年)横浜市が誕生。1887年、東海道線が国府津まで延伸、程ヶ谷駅(現在のJR保土ケ谷駅)が開業した。その後、1927年(昭和2年)に保土ケ谷町が横浜市に編入され、区政施行により保土ケ谷区が誕生した。1910年以降、帷子川沿いにいくつもの工場進出が活発化し、なかでも富士紡績保土ケ谷工場は、現在の区役所周辺に立地し、同区歴史に足跡をのこした。これら工場の進出にともない、桜ヶ丘が宅地開発された。
1933年(昭和8年)、神中鉄道(現在の相模鉄道)が横浜駅に乗り入れ、厚木~横浜間が開通した。第二次大戦の空襲で市内は消失、戦後の再建に。
1959年に横浜市を東西に横断する横浜新道が開通し、第三京浜を経て東京へのアクセスが容易になった。また、1974年(昭和49年)に保土ケ谷バイパスができ、市内を南北に縦断する自動車専用道路で東名高速道路とつながった。
1990年になると、首都高速神奈川3号狩場線が開通、環状2号線も順次つながり、保土ケ谷区は自動車専用道路の要衝となる。
2000年に保土ケ谷区の人口がはじめて20万人を突破する。2007年に区制80周年を迎えた。
かつての大規模工場群は、ビジネスパークや大規模マンションに変貌
保土ケ谷区内で唯一の大学である横浜国立大学(常盤台キャンパス)と保土ケ谷区は、地域における大学の教育・社会貢献活動の促進と、安全・安心、活力あるまちづくりに向けた地域課題の解決を目的とし、双方が持つ知的、人的、物的資源を最大限に活用し、さらなる相互連携の充実・強化を図るため、2003年(平成25年)2月に連携協力協定を締結し、地域の課題解決などの施策に臨んでいる。
同区内の大半は住宅地のため大規模スーパーなどの商業施設が多い。かつて、日本硝子、日本カーリット、保土谷化学工業、古河電池など大規模な工場群があったが、現在すべてが移転。古河電池本社を残してすべての関連施設は移転した。これらの工場跡地は、横浜ビジネスパークや大規模マンション群になっている。
保土ケ谷区は、横浜市の中央部にありながら、水や緑などの自然環境に恵まれており、帷子川沿いの「水の軸」、区の西部に残された緑を南北に結ぶ「緑の軸」、旧東海道沿いの「歴史の軸」として「水と緑と歴史のトライアングル」を構成。これが貴重な地域資源となっている。
公開日:2019.12.26著:吉田 恒道