神奈川県横須賀市の特徴を知る
神奈川県「横須賀市」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
国策で急発展した軍事港湾工業都市は、戦後に民生転用で発展する街
神奈川県横須賀市は、三浦半島の約60%を占め、東西が海に囲まれ、神奈川県の南東に位置する。東京から50km、横浜から20km圏にある中核市だ。東は東京湾、西は相模湾にそれぞれ面する。
市の北端は夏島町で、横浜市金沢区との境の平潟湾に面し、南端は長井で、三浦市初声町に接し、南北はおよそ15.8km。一方、市の東端は鴨居の観音崎で、東京湾口に面し、西端は秋谷の長者ケ崎で、三浦郡葉山町に接し、東西距離はおよそ15.5kmとなっている。同市総面積は100.83平方キロメートルだ。
神奈川県・横須賀市のマンション
2018年、神奈川県・横須賀市で販売された新築マンションは74戸で、相場価格は5329万円~6349万円。また、同市内の中古マンション相場価格は1610万円~4690万円だった。
横須賀市の2019年1月現在の人口は、40万5244人。総世帯数は19万1525世帯である。
明治初期から軍事港湾・重工業都市として急速に発展
明治時代になり、フランス海軍技師ヴェルニーを招いて首長とし、製鉄所や大規模造船所が建設される。それに伴い日本最大の工業地となった横須賀には、産業の発展と共に多くの人材が集まり、優秀な技術者が育った。首長だったヴェルニーが帰国した後、造船所は日本人だけで運営され、軍艦「磐城」を進水させるなど、造船技術も飛躍的に向上した。
1889年(明治22年)6月、軍の要請で横須賀線が開通すると、市街は膨張する。このころ浦賀町では、東京石川島造船所の分工場建設が計画され、1898年(明治31年)11月に開業、浦賀船渠株式会社もその前年に起工式を挙げ、船渠等を建設して、1900年に営業を開始した。
横須賀市は、1906年(明治39年)12月、横須賀町と豊島町が合併し、翌1907年(明治40年)2月に市制が施行され誕生した。県下では横浜市に次いで2番目、全国では59番目の市だった。
1930年(昭和5年)4月、横浜黄金町~浦賀間に湘南電気鉄道が開通し、さらに京浜急行電鉄との提携で、品川~浦賀間の直通が実現し、京浜地方との交通利便性が一挙に進み、近郊の開発なども飛躍的に発展した。
明治以来の陸海軍施設は、その後も近隣町村へと拡大し、市域は広がる。太平洋戦争突入後の1943年(昭和18年)4月、浦賀町、逗子町、大楠町、長井町、武山村、北下浦村の近隣6カ町村と合併し、人口35万余人、面積109.5km2の大軍港都市となった。
敗戦後に人口が激減するも、旧軍施設の積極的な転用が進む
太平洋戦争敗戦で、横須賀市は軍港都市としての基盤が不要となる。そのため、敗戦から3カ月後の1945年11月に人口が20万2038人と激減。1950年、逗子町が同市から分離独立する。
以降、旧軍施設の積極的な転用が進められ、追浜、田浦、久里浜、西地区などに各種企業が進出、産業が発達する。戦後激減した人口も昭和40年10月に、31万7411人にまで増加した。このような市勢の発展に伴い各種利用計画による埋立事業も実施され、大津・馬堀地先、新港建設、安浦地先などが造成され、市域は拡大する。同時に、在日米軍および自衛隊による軍事施設も旧軍跡地に設けられた。
1984年(昭和59年)4月に三浦半島を貫く横浜横須賀道路が、1992年(平成4年)3月に本町山中有料道路が開通した。翌1993年10月、汐入駅前地区第1種市街地再開発事業が完成し、国内最高レベルを誇る「よこすか芸術劇場」が開館した。平成9年4月には、横須賀中央駅前広場等整備事業も完了するなど、社会資本の整備・拡充とともに、「国際海の手文化都市」を目指した都市づくりが進められている。
2001年(平成13年)4月、同市は神奈川県内で初の中核市に移行。2017年に横須賀市は市制110年を迎え、三浦半島の中核都市として、地方分権のフロントランナーとして発展している。
公開日:2020.01.06著:吉田 恒道