大阪府藤井寺市の特徴を知る
大阪府「藤井寺市」の特徴 ― ニッポンの自治体 ―
良好な交通アクセス性を備えた大阪府下もっともコンパクトな住宅都市
大阪府藤井寺市は、大阪平野の南東部に位置し、和泉山脈北麓から緩く広がる羽曳野丘陵の北端を占めている。北部を大和川、東部を石川が流れ、北東部で合流しています。また難波津と大和飛鳥を結ぶルート上に位置したことから、古くから交通の要衝として栄えた。
現在でも、近畿日本鉄道の南大阪線や道明寺線、高速道路の西名阪自動車道、国道170号(大阪外環状線)が市の中央部を通り、そこに3本の主要府道が交差している。さらに、市の中心部に藤井寺インターチェンジが設けられるなど、交通の要地である。良好な交通アクセス性に恵まれた良質な住宅地として高く評価されるコンパクトな住宅都市である。
大阪府・藤井寺市のマンション
2018年、大阪府・藤井寺市で販売された中古マンション相場価格は2100万円~3080万円だった。
2019年1月現在、藤井寺市の人口は、同市の発表によると6万2916人で、総世帯数は2万9136世帯である。
市域の大部分が平坦地で、南から北に傾斜しながら、おおむね数メートルの高低差をなしており、市域は東西4.2km、南北4.0km、藤井寺市の面積は、8.89平方キロメートル、大阪府下でもっとも小さなコンパクトな住宅都市である。
藤井寺の市名は、名刹「葛井寺」(ふじいでら)に由来する。寺に残る伝承によると天平の初期、河内葛井の里にいた百済王族の子孫‐葛井給子の旧跡に、聖武天皇が勅願によって寺院が創建され、稽文会父子(春日仏師)に勅命して千四十二臂を備えた“千手観音”を作らせ、725年(神亀2年)藤原房前を勅使に任命し、僧行基に導師をつとめさせ開眼供養したと記されている。
古代から文化の要地で、河内国府が設置された地域
藤井寺市は、古代より文化の中心地であり、金剛・和泉山系に源を発する石川と大和盆地から流出する大和川との合流点の西側には段丘地形が発達し、この段丘面に巨大な古墳が築造された。
市北東部の国府は、旧石器文化が栄えたエリアで、645年の大化の改新以後は、「河内国府」が設置され河内の中心地となる。
河内と大和を結ぶ大津道(長尾街道)や丹比道(竹の内街道)が整備され交通の要衝として栄える。平安時代末期から鎌倉時代になり、清和天皇の子孫である源頼信が「河内源氏」の祖となり、以来当地を基盤に活躍した。
室町時代から戦国時代になって、村落が地域的に結合した郷村制が発展し、庶民の生活基盤が出来上がった。また、観音信仰が盛んになるにつれ、西国三十三カ所五番札所である葛井寺の門前町として発展した。一方、天神信仰の浸透は後の道明寺天満宮の信仰へと発展する。
江戸時代には、堺の経済商業圏にあり、堺へ通じる長尾街道が繁栄する。一方、1704年(宝永元年)に完成した大和川付替工事は、藤井寺市の地理的条件、自然環境を一変させた。
鉄道網の整備に伴って大きく発展した住宅都市
1889年(明治22年)、明治政府による市町村制施行により、同市域は多数の町と村に分けられた。その後の1890年(明治23年)に道明寺、沢田が合併し「道明寺村」となり、1896年(明治29年)に長野村が「藤井寺村」と改称。1915年(大正4年)に藤井寺、小山が合併により「藤井寺村」となり、現在の藤井寺市の基礎が形成された。
一方、藤井寺市の発展に大きく寄与することになる鉄道路線は、1889年(明治22年)に大阪湊町~柏原間(現JR関西本線)、1898年(明治31年)に柏原~古市間が開通し、1899年(明治32年)に河南鉄道に引き継がれ、1902年(明治35年)、河内長野まで延長された。
その後、1923年(大正12年)に河南鉄道を改称した大阪鉄道(現・近畿日本鉄道)によって道明寺~阿部野橋間が開通したことにより、本格的な住宅開発が進むこととなった。
1928年(昭和3年)、藤井寺村が町制を施行し「藤井寺町」に、1951年(昭和26年)には道明寺村が町制を施行し「道明寺町」となった。そして1959年(同34年)に両町が合併して「藤井寺道明寺町」となり、翌年町名を「美陵町」と改称、1966年(昭和41年)11月1日に「美陵市」として市制を施行し、同日市名を「藤井寺市」と改称した。
公開日:2020.01.06著:吉田 恒道